下河内糀屋 店主 志賀野恵さん n.210
メキシコやキューバの農村
世界中を旅し、自給自足生活も経験
寒い冬の夜、お味噌汁がひときわ美味しく完成した。この日お鍋に溶いたのは、「下河内糀屋」の「こだわり味噌」。身体の中にやさしく沁みわたるような、素朴で滋味豊かな味わいだ。
この、農薬と化学肥料不使用の大豆と米麹で作られた味噌の作り手は、2018年4月に「下河内糀屋」を立ち上げた志賀野恵さん。屈託のない笑顔とハキハキとした語り口が印象的な女性だ。今、河内長野に暮らしながら、河南町にある田畑で有機農業に汗を流し、工房で味噌と米麹を作っている。
「自分や家族の食べるものはできるかぎり自分で作りたい。今、味噌と麹、旬野菜の加工品を作って商品として販売しているんですが、それは生活のため。生活ができるぐらいの売上があれば十分なんです」
今、8歳、6歳、2歳の3児の子育てをしながら、自分で仕事を切り盛りする。そんな野恵さんももともとは大手食品メーカーで働く企業人だった。
「母がずっと有機農業をしていたので子どもの頃から食に関心があり、日常の〝食〟に関係する仕事に就きたいと思って入った会社でした。私はどちらかというと社交的なタイプではなくて職人肌タイプで、先生からは研究職を勧められていたんです。でも、若いときにこそ苦手なことにチャレンジしようと、営業職を志望しました(笑)」
そうして配属されたのが法人営業。しかし仕事を重ねていくうちに、商品そのもの、そして商品が消費者の手元へと届くプロセスに疑問を感じ始めた。「大量生産、大量販売の商品ですから、スーパーのバイヤーさんとは顔を合わせるけれど、実際にその商品を使う消費者の顔はまったく見えない。それに、原材料も大きくは仕入先がわかるものの生産者の具体的な顔はやっぱり見えなくて、そういう商品を販売することに少しずつ疑問を感じ始めました。また、営業職の目標は売上の前年比アップ。なんのために仕事をしているのか、段々とわからなくなってきたんです」
そんな気持ちが入社4年目まで続いたことで、「会社を辞めよう」と決意。バックパッカーとして世界中を回る旅へと出た。行き先は、韓国、インド、中東、ヨーロッパ、アメリカ、メキシコ、グアテマラ……。メキシコではサパティスタ(農民運動)地区でボランティアをしながら最低限のモノだけがある暮らしに身をおいた。続いて訪れたキューバでは田舎の漁村の寝泊まり。「ほぼ自給自足の暮らしでしたが、わたしはどんな状況でも、最低限のモノがあれば生きていけるなとわかりました(笑)」
そんな体験を経て考えたのは、「日本に帰ったら自分で作れるものは自分で作り、もっと自分の力で生きていく暮らしをしよう」ということ。「それまではお金にとらわれて生きていたという気がしてきたんです」と野恵さん。
また、この旅の途中のグアテマラで出会い、帰国後に結婚したのが現在のパートナー。東京出身の彼が「大阪で暮らしてみたい」と言ったことから、二人の拠点は野恵さんの生まれ育った大阪となった。
「自分で作れるもの」を生活の糧にできればと、当初はお弁当を作って販売することを考えた。しかし少量販売では生活しているだけの収入を得るのは難しい。「なら、うちで働かないか」と知人に声をかけられて働き始めたのが高齢者施設だった。そこで調理の仕事に就き、「未経験ながらも食について一生懸命勉強しましたね」と振り返る。そして産休や育休を経て、調理師免許も取得。
その後、「子育てのために自然に近いところで暮らしたい」と、大阪市から河内長野市へ引っ越した。経験をさらに積もうと保育園の調理職を探したところ、偶然決まった就職先は和食給食を実施している保育園。「お味噌汁も昆布と煮干しからしっかりと出汁をとるような、食にこだわりのある保育園でした」。そこで2年間働いたのち、第3子の出産を機に退職。「3人の子育てと両立するためにも、今度こそ自分で仕事を興そうと思いました」
実家の納屋を工房にリフォーム
かまどに薪をくべ、米を蒸す
自分でものを作り、生活をしていく—。可能ならそれを農業で実現したいと考えていた。「でも、家族農業かつ有機農業で生計を立てることは、現実にはかなり厳しい。だから自分たちで食べる分は自分でつくり、現金収入は他で得ることにしようと決めました」
そんな時、友人を通じて三重県の麹職人さんと出会う。「母が無農薬でお米を作っているので、そのお米で麹を作れたら」とピンときた野恵さんは、泊まり込みで麹づくりを学びに行った。そこでの麹づくりの風景は、高性能な機器があるわけでもなく、広大な工場が広がっているわけでもない。「設備も広さも、実家にある納屋と変わらない。これならできるかもしれない」と感じた野恵さんに、「やったらいいやん。大豆やお米の仕入れ先も紹介してあげるよ」と職人さんが背中を押した。
味噌と麹づくりを仕事にする。そう目標が明確になると、実家の納屋をリフォームして工房に。プロの職人にきてもらい、かまども作った。そのかまどに薪をくべ、お米を蒸す。まずは、以前から手作りしていた味噌を商品にしようと、16年に初めて千代田神社の手作り市で販売。翌年には「昨年も買って美味しかったから、また買いに来ました」となんとリピーターも訪れた。
18年に屋号を「下河内糀屋」とし、本格的に販売を開始。「味噌も麹も、技術的に知らないことが多く、何が正解かわからないことが多かったんです。でも、不思議と作り方に詳しい人との縁が生まれて、いろいろな方がこうしたらいいよと、ご自身の経験を惜しみなく教えてくれました。味噌や麹を作っている方は、本当にいい人が多いんです(笑)」
河内長野市で明治から昭和中期頃まで稼働していたという醤油蔵「上堂本店」。「上堂さんが木樽など昔の道具を譲ってくださいました。菌も棲み着いているいいものを受け継がせていただいたので、それを活用していいものを作っていきたい」
商品の販売委託先は「道の駅ちはやあかさか」「BAKE HOUSE KIGI(河内長野)」「いちご畑の米夢ちゃん(河南町)」など5軒。「子育て中なので、基本的には私は製造業に徹して、小売は他にお任せしたいと思っているんです」
野恵さんは今、課題に感じていることがある。「味噌や麹づくりは、じつはなかなかの力仕事。20キロの味噌樽や30キロのお米を運ばないといけなくて、男性たちが作業していたものです。それを女性が個人でも続けていくには工夫を加えないといけない。女性でも続けられる作業へと変えていくこと、それに挑戦したいと思っています」
昔は各集落に1軒はあったという糀屋。この南河内で今、女性の手で再びじわじわと広がりを見せている。
(取材・文 松岡理絵)
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