彦ちゃんの河内歴史話井戸 第56話
土佐四天王の一人も南河内を通ったとさ。
2月末に近鉄八尾駅近くの商店街で「ちゃちゃ入れマンデー」というテレビ番組の取材を受けました。なんでも河内弁についての質問でした。ということで、皆さんは「土佐四天王」って聞かれて、四人とも答えられますか?
正解の方は、きっと少ないでしょうね。坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太(瑞山)の三人を言えるだけでも素晴らしいですよ。実は、ここに吉村虎(寅)太郎が入ります。龍馬より早く脱藩し、龍馬より早く逝ってしまいました。
『吉村虎太郎重郷(二十七才) 天保八年四月十八日生 土州高岡郡津野山郷芳生野村、寺田屋事件連座』(「実記天誅組始末」樋口三郎著より)。
この吉村さんと南河内の御縁ですが、文久3(1863年)8月13日に出された「大和行幸の詔(みことのり)」に呼応して、京都で結成された彼を中心とした一団(世に言う天誅組)が大坂に下り、16日に堺に上陸し、狭山藩への協力要請後、甲(向)田に在る水郡邸や養楽寺(現・富田林市)で泊りました。といっても数時間の仮眠でしたが。
17日の夜明け前に出立し、三日市の油屋(写真は本陣跡碑)から観心寺に向かい、千早峠を越えて天領である大和の五條代官所に討ち入ります。要は、神武天皇陵へ参拝に来られる孝明天皇をお迎えするための露払いであり、倒幕への狼煙を上げたのです。この行動は、京都での政変により幕府側の手で短期間で鎮圧されますが、大政奉還への流れを産み「明治維新の魁」と称される事となりました。
南河内を代表する人物といえば楠公さんですが、彼らの行軍ルートからも楠公さんに憧れていた事は間違いありません。
歴史の歯車が少し異なれば、吉村さんの名は他の御三方よりも有名になっていた事でしょう。高知虎太郎空港となった可能性すらあります(笑)。
天誅(忠)組記念館
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藤井寺市小山5-8-33 テックハイム小山1階
10:00~12:00、13:00~16:00
水曜休/賽銭・カンパ方式