彦ちゃんの河内歴史話井戸 第59話
関東から関西へ。藩主だって転勤族。
今年の連載テーマ「南河内を訪れた歴史上の人物に触れ、その人物が言葉や感想あるいは、形として何かを残していないか(影響や記録など)を探ってみよう」に話を戻してと。今回は訪れたというより、引っ越しさせられたって感じ。その人物は北条氏恭(ほうじょううじゆき)さんです。
実は、今回この方を取り上げたのは、直筆の書(写真)が手もとに有ることが分かったからです。落款を観ると北條ですが、こちらが本来の「ほうじょう」だそうです。
氏恭さんは万延元年(1860)に今の栃木県に在った佐野藩堀田家から狭山藩北条家に養子に来られて、翌文久元年に(最後の)藩主に成られました。
私も関東に二度の転勤経験が有るので思うのですが、言葉(方言)や食べ物(味)に戸惑われたでしょうね。
それどころか、僅か2年後の天誅(忠)組の騒動の際には、堺に上陸した中山忠光を盟主と仰ぐ志士一行が、この狭山藩内を通り報恩寺に入りました。このお寺にはその時に忠光が座った床几が残っています(非公開)。突然陣屋に現れた交渉団に驚かれたことでしょう。
しかし、急な応援要請を受けてもそれなりの対応をしました。氏恭は未だ18歳くらいですから、取り巻き(重臣)が、「殿は病気」と称して直接の相手をさせていません。本当に大変な時代に河内の藩主になったものです。
いずれにしても、この時期の小藩はどこも財政に苦しみ、そして尊王か佐幕かの選択を迫られます。この二者択一では沢山の藩内抗争を生み各地で悲劇が起きました。その意味では氏恭さんは実家が関東で徳川贔屓の地ですから、逆に京に近く、刻々と変わる情勢を知る身とすれば、直ぐに飛んで帰って知らせたい思いだったかも知れませんよね。あくまでも私の推察ですが。
天誅(忠)組記念館
☎090-5010-3995(予約優先)
藤井寺市小山5-8-33 テックハイム小山1階
10:00~12:00、13:00~16:00
水曜休/賽銭・カンパ方式